神様っているのかな

2018年11月25日日曜日

t f B! P L
現在時刻21時30分。
既に睡眠薬をキメている私の視界は、うすらうすらとしております。

先程、ベビースターを食べながら思ったのですが。
これが例えば30円の場合、コレを食べなければ、つまり購入しなければ手元には30円残っている計算になるんです。
この30円を、恵まれない子供とやらに寄付をしたらどうなるんでしょうか?

ワクチンを買えたり、ご飯が食べられたりできるんでしょうか?
そう考えると、お菓子を買わずに募金をするという行為だけで、私は多くの人命を救う事になる訳です。
ですが、はたしてその行為は正しい行いなのでしょうか?

ある程度中抜きされてしまう事を考慮に入れない……、あえて入れないでそのまま現地募金が運ばれたとしましょう。
で、それで恵まれない子供達とやらの命は救われるのでしょうか?


私は恵まれない子供達……という枠組みの中で、更に恵まれないカーストの位置する子供がいると確信しています。

恵まれるのは、恵まれる子。
恵まれない子は、恵まれない子。
世界は既に、そのようにして作られているのではないか? と思うのです。

ポリポリとお菓子を食べながら「コレを我慢したら人命が救える」と思っていても、実際問題止められません。
外に出れば、居酒屋で飲んだり食べたり、レストランでディナーを楽しんでいたりと。

恵まれていない子供達の目線から見れば、それらは豪華な豪遊をしているようなものです。
「お願いです、浪費を辞めて、恵まれない子供を救ってもらえませんか?」

そう言われて、どれだけの数の人が多額の募金を出すのでしょうか。
生きていくだけなら、つつましく、自炊をしながらで良い。
より良い生活は求める事はできる。
だか、その裏で数えきれないくらいの命を見捨てる事に繋がる訳だ。

この世界は歪だ。
歪んで歪んで、ぐにゃぐにゃになっている。

だけども、僕は胸を張って言うだろう。
「知った事か、私はこのベビースターを食べるんだ」とね。

自分の事で精一杯なのに、他人を心配するなんておこがましいにも程がある。
「貴方はまだ恵まれている」なんて言われても「僕は恵まれているとは思わない」こう返す。
世間一般的にどうなのかなんて知らない。
僕は恵まれていない。
海外でワクチンを摂取しないと生きられないような、日々ご飯が食べられないような生活をしている子供ですら、僕は誰よりも不幸だと確信できる。

不幸とは、自分で決める事だ。
誰かに決める事はできない。

同じように幸せも、自分にしか扱えない。

だからこそ、私は戦うんだ。

君はまだマシだ。もっと不幸の人がいる。もっと苦しんでいる人がいる。比べればマシなほうだ。

そんな戯言は聞き飽きた。
私が聞きたいのは、受け入れたいのは、私が決めた、私だけの幸せなのだ。
不幸自慢なんて聞きたくない。お前の基準なんて聞きたくない。

だからこそ、私の行動は全て自分で決めて良く。
今、ようやく自分の意思で一歩を踏み出した。

世界中の誰かが死んだって構わない。
どこかで苦しんで至ってかまわない。
僕が幸せなら、構わない。

僕には余裕が無い、
だからこそ。見える場所がある。
僕の周りだけは、ハッキリと見える。そこしか僕は信じない。

だからゆっくりと眠り、ゆっくりと起き、お風呂に入り、散歩をして、買い物をして、帰宅してイスに座るんだ。

「ンー。ゴホンゴホン。えー、日曜日のみなさん、いかがお過ごしでしょうか? パネるです。今日ヤリゲームはね、ステヂューバリーです。頑張っていきますのでよろしくお願いします」

僕には余裕がない。
だからこど、見える場所がある。
目の前の世界だけは、ハッキリと見える。そこしか僕は信じない。

今日も農場。明日も農場。
癒されながら、村の復興を進めるのだ。

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